軌跡

 2025年に創立60周年を迎える長野県勤労者山岳連盟は、今まで労山運動を推進してきた世代が高齢化し、登山に対する熱い思いや成し遂げてきた功績を語る「語りべが」年々少なくなってきた今日、後世に継承される羅針盤として「記憶ではなく記録として残す」ことが必要と考え、長野県勤労者山岳連盟(以下、長野県労山・長野県連)の「軌跡」としてここに記す。

【大衆登山の幕開け】
 1956年(昭和31年)5月、日本の登山隊がネパールヒマラヤ山脈の標高世界8位のマナスル (8163m)の初登頂に成功した。戦前戦後すぐの時期に世界各国の登山隊が、ヒマラヤの8,000m峰の初登頂にしのぎを削っていた時期、敗戦で打ちひしがれていた日本が唯一、世界初登頂を成し遂げた山がマナスルである。
 第2次世界大戦終了後の日本経済復興期の大偉業は日本国民に熱狂をもって迎えられ、勇気と自信をもたらした。それをきっかけに日本の登山界は青年層を中心に空前の登山ブームとなり、それまで日本の登山界をリードしてきた大学山岳部や伝統的な社会人山岳会にはとどまらない新しい大きなエネルギーを登山界に与え、日本の登山はその歴史上初めて幅広い勤労者・市民を含めた大衆登山の時代に突入した。登山隊が使用したビブラムソールやナイロン製クライミングロープはこのころ急速に普及した。
    

【労山誕生の背景】
 登山、スポーツは働く者の生活に希望と勇気を与え、勤労者の権利であると共に大きな社会的意義を持っている。しかしかつての登山界は増大する登山者の登山要求に応じる山岳会は少なく、閉鎖的傾向が強く他の山岳会の会員とは山行を共にしないという制約があったり、新人への「しごき」も存在した。
 新しい山岳会は既存の山岳会と違って、勤労者が中心となり民主的・自主的かつ大衆的な組織を目指す組織が必要とされた。

【労山結成】
 上記のような登山状況の変化を背景として、「働くもののための山岳会を作ろう!」と旗を掲げた三俣小屋(現在は三俣山荘)経営者の伊藤正一さんと伊藤さんの熱意に共鳴した松本義明さん(弁護士・国会議員で、妻は絵本作家の岩崎ちひろさん)の共同作業で、深田久弥さん(日本百名山著者)・田中澄江さん(花の百名山著者)・山本薩夫さん(映画監督。代表作、白い巨塔・戦争と人間)ら文化人を交え、1960年5月に現在の労山の前身である「勤労者山岳会」が結成された。
 その後、この「勤労者山岳会」の趣旨は全国に広がり、1963年7月には、現在の名称である「日本勤労者山岳連盟」(略称 労山(ROUSAN))として発展・再発足した。
 労山は「ハイキングからヒマラヤまで」・「安く・楽しく・安全に」というスローガンを掲げ、登山の国民的普及とより高度な登山の追求を目指し、国内登山はもとより海外登山、遭難対策、自然保護など多彩で積極的な活動を展開してきた。

【長野県勤労者山岳連盟結成】
 長野県下では、1962年(昭和37)に「松本労山」が結成され、松本労山の分家の「木曽労山」、1965年(昭和40年)に「長野労山」が結成された。長野県勤労者山岳連盟は、1966年5月に長野労山・上小労山・松本労山・伊南労山の4団体で結成された。1966年(41年)~1969年(44年)の間に、「信濃町労山」・「牟礼・三水労山」・「飯山労山」・「中野労山」・「上小労山」・「佐久労山」・「小諸労山」・「大町労山」・「諏訪労山」・「伊那労山」・「伊南労山」・「飯田労山」と労山数・会員数を増やし、「県内すべての市に労山を!」・「20労山・1000名の会員に!」を掲げる運動を展開した。その後、幾度の再結成を経て現在の加盟団体に至っている。

【組織活動】
 労山は「ハイキングからヒマラヤまで」・「安く・楽しく・安全に」というスローガンを掲げ、登山の国民的普及とより高度な登山の追求を目指し、国内登山はもとより海外登山・遭難対策・自然保護など多彩で積極的な活動を展開してきた。長野県労山は、1966年結成当時、4山岳会・会員数278名だったものが、1981年には19労山679名に達した。その後は右肩下がりで、2021年度には300名を割り、2022年度253名に減少した。
 今後、高齢化や社会の変化により会員数の増減はあるものの、趣意書に基づく山岳会が地域に組織化され、登山を中心とした多面的な活動を続けることの持つ意味は大きい。組織が存在するということは社会に働きかける力を持っているということでもある。
 かつての労山は、政治や登山ブームといった時代と結びついたものであった。いまや労山活動に共感して入会する人は少ないが、レベルに応じた技術指導や遭難事故への対応、労山基金加入、自然保護活動など、未組織登山者にはできないことを長野県労山は担っている。

長野県勤労者山岳連盟結成大会(1966年5月)

【安全登山】
 加盟団体のリーダーの中には、登山技術・登山知識・指導経験不足で安全登山に対する認識も浅かったため、長野県労山は1975年(昭和50年)に「教育部」を設立し、指導者の育成と新人教育に取り組んだ。
 この頃全国的に労山会員の遭難事故が多発していた。1976年に「遭難対策委員会」を設立し、仲間の命を守るために事故を起こさないための啓蒙と研修を柱に、遭難救助訓練や救助隊の設立などお互いに助け合うチームレスキュー活動にも取り組んできた 。

第4回指導者講習会 1968年2月 五龍岳遠見尾根
岩登り研修会

【初登攀・新ルート開拓時代】
 「小川山」(廻り目平周辺の岩場)と言えば、フリークライミングのメッカとしてクライミングをやる人には大変なじみが深い場所である。しかし1970年代まではあたり一面、牛の放牧地で岩はブッシュに覆われていた。早くも花崗岩のこの岩場に最初に目を付けたのが、登攀意欲に燃える長野県労山だった。ここには1973年から、上小勤労者山岳会と佐久アッセントクラブを中心に多くのルートが開拓された。
 その後、フラットソールシューズの出現により、開拓当時の人工のルートがフリーで登られるようになり、最近ではボルダリングやキャンプブームにより、週末には大変の賑わいをみせている。
 開拓ルートは、上小労山会報「こまゆみ」に掲載され、山岳雑誌「岳人」の「奥秩父・西股沢の岩場研究」に連載掲載後、「「日本登山大系8」 八ヶ岳・奥秩父・中央アルプス 金峰山股沢の岩場 188~200ページ」に製本化された。

【海外登山】
 日本人の海外渡航が1965年から自由化されると、海外登山を目指す会員も多くなった。しかし当時は現在のように、誰もが手軽に海外登山に行ける時代ではなかった。その中で、長野県労山隊として初めての海外登山、1974年5月~7月、4山岳会5名の隊員が未踏峰のインドヒマラヤ/ビハリジョット北峰(標高6,290m)に挑戦した。目標の登頂は果たせなかったものの、多くの成果を得て無事帰国した。
 1980年代に入ると、「労山実践高所登山学校」の海外登山隊などに参加し、8,000m峰無酸素登頂・チョモランマ・K2挑戦など高峰登山を果たす会員を多く排出した。

ビハリジョット北峰
長野県勤労者山岳連盟創立40周年海外遠征 チョー・オユー

【自然保護活動】
 長野県労山が他山岳団体と違う所は、危険な挑戦をする登山より安全登山に重きをおくことに加え、長野県における自然保護活動に先導に立って大きく関わってきたことが挙げられる。6月5日は「環境の日」として、環境保全に対する関心を高め啓発活動を図る日として制定されたが、国連による国際的な記念日でもある。日本では環境省の主唱により「環境月間」とし、各地でさまざまな行事が行われている。
 佐久地方では1968年に地元山岳会によって、山での清掃活動が始められた。当時は「ごみはごみ箱へ」が一般的で、ごみ箱がいっぱいになるとその周辺はごみが散乱していた。山を綺麗にするには自分で出したごみは自分で持ち帰らなければならないという原点に立ち返り、「ごみ持ち帰り運動」を発展させ、長野県労山として「県下一斉清掃登山」として定着した。
 県下一斉清掃登山は、単に山の清掃をおこなうだけでなく、登山者や世論に自然保護に関心を持たせ、環境問題を訴えることにある。
 当時は日本中いたるところで観光地開発ブームによる山野の乱開発が進んだ結果、自然保護運動が盛んになった。「ビーナスライン開発計画」に対しては、1976年から霧ヶ峰・美ヶ原の「ビーナスライン建設反対運動」を開始した。長野県企業局によるビーナスラインの開発は、長期にわたる建設反対の運動のため、「ビーナスライン建設反対闘争」とも評され、遺跡や湿原、貴重な景観を最低ラインで守ることができた。この一連の闘争は、新田次郎氏の小説「霧の子孫たち」により後世に伝えられている。
 長野県労山に加盟する全山岳会がひとつになって参加したこの運動は長野県内にとどまらず、全国各地で起こった自然保護運動に大きく影響を与えたと言って過言ではない。この運動は長野県勤労者山岳連盟が中心となって進めていたが、この機会に結成されたのが、「長野県自然保護連盟」である。最近では美ヶ原台上を車両を通す開発が水面下で計画されているため、今後も注目していきたい。
 その後、「南アルプススーパー林道建設反対運動」、1988年から長野冬季五輪の「志賀高原岩菅山滑降競技コース反対運動」、「リニア新幹線反対運動」は、現在の県内の山を守っている。

長野県自然保護連盟結成総会
第16回クリーンハイキング「佐久地方の野山を美しくする日」(第13回県下一斉清掃登山)1991年6月 蓼科山
「美しい自然はみんなのもの。入園料をとる県の環境行政を改めさせよう|」をスローガンに、登山スタイルでメーデーを行進。
第41回佐久地区小諸会場(1970年5月1日)

【女性と登山】
 現在、女性の社会における価値は向上し、今では自由に山に行ける時代になった。しかし1960年~1980年代は、女性は家庭の理解や協力がなかなか得られず、勤労者全体の中でもとりわけ女性の立場は弱かった。長野県連は1975年(昭和50年)「婦人部」を設け、1990年(平成2年)に女性委員会と改め、女性の社会的地位向上と自由に山に行けるための後押しをしてきた。

女性委員会交流山行 1998年 大町市鍬の峰
女性委員会交流山行 2002年 ネパールエベレスト街道とゴーキョピーク

【機関誌】
 機関誌は、1970年(昭和45年)創刊号「はためけ緑の旗」を皮切りに「原生林」として発刊された。機関誌は会員と会員とを結ぶ情報共有として記憶を記録として残すことで、後々忘れていた記憶もよみがえらせてくれる。また主義主張を文章化することで、同じ考えをもつ会員とのつながりを深くする。機関誌は、身近な会員が作成することに共感する面も多く、意義があり価値の高いものである。

【登山と平和】
 労山は、創立当初から軍国主義復活に反対し、平和を大切にする姿勢を明確にしてきた。 1980年代に入って、「平和な社会でこそスポーツ・文化の発展が保障される」とし、長野県労山も平和憲法を守る運動に賛同している。毎年「原水爆禁止国民平和大行進」に参加し、県内でも労山旗をリレーする運動にも取り組んでいる。